インターミッション


2000年6月

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■ 江戸京子

数年前、パリのロン・ティボ−国際コンク−ルに、審査員の一人として招かれていた時のことである。このコンク−ルは、日本人では松浦豊明、清水和音、野原みどりなどが優勝し、世界的に権威のあるとされているコンク−ルのひとつだが、なんと面白いことに、フランスのアマチュア・ピアノコンク−ルの優勝者が応募してきていた。
若い演奏家たちが、キャリアをスタ−トさせるための登竜門として腕を競い合う、こうした世界有数のコンク−ルに応募するという度胸もさることながら、それなりの音楽歴をもっていても落とされることもしばしば起こる書類審査をよくぞ通過したものだと思った。
他の審査員たちの思いも同じだったらしく、作曲家のシチェドリンはじめ、そうそうたる音楽家たちが、まことに興味津々な様子で待ち構えていたところ、舞台に現れた長身の青年は、手を胸にあて、にっこり笑って深々とお辞儀をした。
すでにその多少芝居がかった態度からして、必死な面持ちの他の参加者とは異なり余裕綽々で、いかにも現在自分が置かれているシチュエ−ションを楽しんでいる様子がうかがわれる。
ピアノの前に座って弾きだしたのはなんとリストの超絶技巧練習曲、審査員一同思わず身を乗り出して聴き入ったが、やがて笑いや囁きがさざ波のように広がった。
弾いている姿は大家なみに堂々として姿勢もよく、演奏そのものも、それなりに恰好はついている。ところが何というか、演奏の全体像をジグゾ−パズルに例えてみれば、最終的なでき上がりの形は想像できるものの、肝心なブロックがあちこち抜け落ちている、とでもいったところであろうか。
このように、アマチュアであることが歴然と表れている内容の演奏と、長年プロとしての経験を積んだような、なんの恐れげもない物慣れた演奏態度との対比が滑稽で、審査員たちが笑ったというわけであった。当然のことながら、彼は第一次予選で姿を消してしまった。
こうしたコンク−ルの審査員は、演奏活動もしているが、長年生徒を教え、名教授としての高名を馳せている、筋金入りのプロがほとんどで、一人一人の参加者の演奏のどこが優れ、どこがどのように悪いかを細部に渡って明確に指摘することができる。それでなければ、演奏家志望の若者たちの将来の明暗を分ける決定を下す資格はないはずである。
むろん審査員とて人間であり、感情の揺れや好みの違い、また最終予選に残った優勝候補者がドングリの背比べだったりした場合、政治的駆け引きがまったくないとはいえないが、そうしたことに審査員全員が加担することはあり得ない。私が関わったコンク−ルでは、最終的には納得のいく結果が出ている。
もちろん、プロとアマチュアの演奏を比較して、常にある一定の水準は保ってはいるが、コントロールが自在なため、時には全力投球とも言えないプロの演奏よりも、熱気に溢れ、音楽への愛情が滲み出ているアマチュアの演奏のほうが、感動的な場合があることも事実である。
しかし長年修練を積み、場数を踏んで、それによって生計を立てているプロと、アマチュアの演奏には、はっきりした差があって、同じ土俵で勝負することはできない。
こうしたプロとアマの違いというものが、本来ならば音楽祭やコンサートの企画についてもいえるはずである。
日本に西洋音楽が本格的に輸入されて百年あまり、音楽家たちには西洋人と互角に勝負できるプロが輩出しているにも関わらず、いわゆる音楽の受容側の啓蒙が行なわれなかったため、特に聴衆と音楽家をつなぐ中間地帯である音楽業界は、ヨーロッパなどに比べ、五十年から百年の遅れをとっている。
昨今、全国津々浦々に、ソフトはどうするのか、まったく無計画なまま無数の自治体ホ−ルが建設され、運営に困ったあげく、遅ればせながら、音楽会の企画制作、ホ−ルの運営などに携われるア−ト・マネ−ジメント要員の育成が急務であるとの認識が高まってきた。
美術部門においては、早くから美術館のキュレイタ−の役目などに携われる学芸員が養成されてきたが、音楽の世界ではこのことがまったく欠落していたのである。
ところが、やっとア−ト・マネ−ジメントの重要性が叫ばれ始めたにもかかわらず、ではア−ト・マネ−ジメントとは何であるかということの本質が、残念ながらまだまだ理解されていないのが現状である。
まず、ア−ト・マネ−ジメントとは「ア−ト」という理想を、「マネ−ジメント」によって、現実という枠内にどうおさめるかという仕事であるが、これに携わる人間は、どんな場合でも芸術家と同等か、それ以上に芸術が理解できるということがその資格の必須条件であるはずである。
他の事業はそうはいかないだろうが、この分野の「マネ−ジメント」は、それほど複雑なものではなく、多少努力すれば短期間でも習得できる。しかし肝心の「ア−ト」に関わる部分は、そう簡単にはいかない。
まずは感性の問題があり、これは音楽家に成り得るにはそのための才能がなければどうにもならないのと同じように肝要なことである。
よく偉大な音楽家たちが、才能は30%、あとは努力というが、ア−ト・マネ−ジメントも同じである。どのくらい沢山の公演を聴いてきたか、観てきたか、つまりは感性と経験の積み重ね、そしてアートを愛する気持ちの三つが揃わないかぎり、世界の歌劇場の芸術監督レベルの人材は日本では育たないであろう。
次回は、日本におけるア−ト・マネ−ジメントについてもう少しふれてみたい。


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