インターミッション


2001年6月

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■ 江戸京子

ポリ−ニを初めて聴いたのは何時のことだったか。何時、何処で、どんなプログラムだったか、さだかな記憶はない。情熱と理性という相反する二頭の馬を、超人的な集中力と、鋼鉄の意志で乗りこなして天を駆けめぐる雄姿に圧倒され、その他のことは記憶から脱落してしまったらしい。
その後パリで聴いた、シュ−ベルトの最後の三つのソナタを弾いたリサイタルでは、決して堅牢な構造を持っているとはいえないこの三曲のそれぞれが、広大な宇宙を形作りつつ、星の軌跡にも似た秩序のなかに納まり、そのなかの一つ一つの音は、鏡のように宇宙全体を映し出しているという圧倒的な構築力で、まさに人間技を越えた名演だった。
「イタリア人は生まれたときから成熟している。」と書いたのはヘミングウエイだったと思うが、若くしてすでこれほど完璧な自己完結を遂げたピアニストが、歳月とともにどのように変貌する可能性が残されているのだろうか、と危惧の念を抱いたことをいまだに記憶している。
それにしても、こうした人間業とは思えない、奇跡的な名演に居合わせると、聴衆はあたかも呪縛にあった化石のようになって聴き入るのが常だが、長大なソナタのためか、聴衆に対してまったく媚ない態度が好まれないのか、会場がざわめき、やはりパリの聴衆はスノブで、心から音楽好きというわけではないのだ、と感じたことも改めて思い出す。
若いころからしばしば彼と共演してきた小沢征爾は、「あいつ、演奏会で、だんだん様子がおかしくなってくると、気狂いみたいに凄いことになる。普段、世のなかのことについては、奥さんまかせでぼ−としているけど。」と彼らしい直観的な言葉で、ポリ−ニを語っている。
数年間、ポリ−ニの演奏に接することのなかった時期、すでに6、7年前のことだが、パリ在住の、音楽を深く理解する友人から、リサイタルで聴いたポリ−ニが、なにか人生に不幸があったかのように急激に年取り、演奏している様子も悲痛で、素人もわかるような、彼としては考えられないほどのミスをしたと知らせてきた。その後、しばらくして日本でも、あまりにも数多くの演奏会をこなしているためか、苛立って不機嫌な演奏を聴いたこともあった。
そうしたことが起こっても不思議はない。演奏とは、避けようもなく時を生きる芸術であり、その都度の弾き手の精神状態に左右される。もし長年にわたって、聴衆がその演奏家に望んでいる演奏−少なくとも外郭は常に同じスタイルを固守すること−が出来るとしたら、それは自分を商品化したということであり、今の世のなかの商業主義が生んだ鬼子であり、真の芸術家ではないと私は思っている。
私の、60年代のアメリカ滞在の経験では、ニュ−ヨ−クで、すでに名のある演奏家が、聴衆や批評家、音楽業界にとって失敗と思われる不満足な演奏をした場合、それはアメリカ中のオ−ケストラに知れ渡り、当分の間、弾くチャンスはなく、再起は非常に困難だった。演奏家の数が増えた現在、さらに過酷な競争社会となっていると推測するが、アメリカではクラシックの演奏家であっても、名を成したスタ−はブランド商品であり、欠陥があってはならないのである。
それに比べ、ヨ−ロッパは、−といっても私が良く知っているのはパリだが−もっと寛大で、一時の不調や、成長の過程での迷いなどは受け入れる。
残念ながら現在、政治経済はアメリカ主導、クラシック音楽の世界といえどもその影響から逃れることはできず、世界中が、商業主義の波に浸食されつつある。
今回のポリーニの東京での演奏は、彼が現存するピアニストの最高峰であることは認めつつも、こうした態勢の流れに呑み込まれてしまったかのようで、選曲も演奏も、いままで私が聴いた演奏会のなかで最も不満が残った演奏会だった。会場は超満員、猛スピ−ドで弾かれたアンコ−ルのショパンやリストの練習曲に、聴衆のブラボ−の連呼で沸きに沸いていたにもかかわらずである。
一体何が起こったのか。ポリ−ニも60歳、どんな天才であっても避けて通ることのできない、老いがもたらす精神的、肉体的衰退を実感したのか、まるで国際コンク−ルで凌ぎを削る若者たちと張り合うかのように、老いをねじ伏せ、若さの残滓を誇示しようとする焦りを感じたのは私だけであろうか。
前回、東京で弾かれたベ−ト−ヴェンのソナタのop106が、確かにあの鋼鉄の指は衰えはみせ、加齢によって生ずる、端折り気味のフレ−ズの処理はあったにしても、そんなことはまったく問題にならないような凄味のある内容であったのにもかかわらずである。 
あのop106は、命の祝祭とでもいった色彩豊かな華やぎに満ち、これまでの誰の演奏によっても聴こえてこなかった、ウイ−ンの町角の音楽までが浮び上がった。アポロン的端正さと、ディオニソス的な熱い血のざわめきや陶酔が一体となった、恐らく私が一生のうちに何回も聴けないであろう、永遠に記憶に焼きつくような演奏であった。
滅多にないことだが、演奏が作品そのものを超えるというのはこういうことだろうかと思ったほどである。ベ−トベンの生涯の最後の、古典からロマン派へと移り行くこの作品に、イタリアの天才が、まったく新しい息吹を吹き込んだ、歴史的瞬間に居合わせたという感激は今も忘れられない。
今回のプログラムの、シュ−マンのクライスレリア−ナも、リストのグランド・ソナタも、何故今、ポリ−ニがこの曲を選ばなければならないのかが理解できない。予感はしたものの、聴き終わってみればなおのこと、誤った選曲だったと思う。
まずクライスレリア−ナだが、夢のような憧憬や、死をかいま見る狂気が錯綜し、重なり合い、矛盾を孕みつつ暗く深い森のなかを進んでいくような、ドイツ・ロマン派の申し子とでもいったこの曲が、彼の手にかかると、一音一音に翳りがなさ過ぎ、全体が何の淀みもない、ラテン的明晰さで浮かび上がってくる。たゆといがあってこそ、暗い深淵を覗き見ることができるというのに、大事なフレ−ズの後半が意味もなく前のめりとなり次のフレ−ズに滑り込んでしまう。
勿論、4番や終曲では、ポリ−ニならではの、高邁で深みのある音楽を聴くことができたが、もしあまたの名曲を残した、シュ−マンの作品から選ぶとしたら、彼の音楽的資質を十全に活かすことができる、交響的練習曲あるいは幻想曲を何故選ばなかったのか。
リストのソナタはというと、この気宇壮大な曲は、気力と体力が充溢し、筋力の強靱さを、最後まで持続できる若さがないと弾き遂げられない。しかしそれがありさえすれば、曲自体の出来のよさが加担し、コンク−ルなどでの優勝が容易なので、選曲のなかからこの曲を抜いているところさえある。
私にとっての、この曲の演奏の最高峰は、留学生時代にパリで聴いた、サムソン・フランソワによるものである。鳥肌立つほどデモ−ニッシュで、かつ放埒なまでに絢爛豪華だったサムソン・フランソワの演奏はいまだに忘れられない。当時のフランソワは、まさにキャリアの絶頂にあった。悲しいことに、日本で私が最後に聴いた演奏会では、多量のアルコ−ルを嗜む男性に特有の真っ赤な鼻で舞台に現れ、演奏も無残な千鳥足であり、他に例をみない感性に恵まれた天才の、なんとも痛ましい生を消耗しつくした姿がそこにあった。
ポリ−ニは、リストのあと、大曲を弾き終わったあとの疲労をものともせず、ショパンのエチュ−ドの4番や、リストの超絶技巧練習曲f−mollなどをアンコ−ルに弾いて喝采を浴びた。参加者が若さを謳歌しつつ、、卓越した技術を競い合う国際コンク−ルで、しばしば弾かれるこれらの曲が、細かい音が聴きとれないほどの異様な速度で弾かれたのだった。
聴衆は沸き立ったが、彼は果して嬉しかったかどうか。
コンサ−トが終わっての帰り道、私は、若い友人のピアニストとともに、今の世のなかで、最後まで演奏家として生きることが如何に過酷なことかを話し合った。
世俗を離れ、自然と相対しながら年を重ね、自らの音楽を成熟させていったエドウィン・フィッシャ−やパブロ・カザルスの時代は、遠い昔のおとぎ話となってしまったようである。


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